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(本文訳注 038) トラヤヌス帝 Marcus Ulpius Trajanus
A D 52 - 117 年。ロ-マ帝国第 13 代皇帝で、在位 A D 98 - 117 年。スペインのイタリカ Italica の出身で、 97 年にネルウア帝 Nerva の養子となり、その死後即位した。五賢帝の一人で、養子皇帝の初めである。2 回の戦争で ダキア人 Dacia を討伐し、北アラビアの 2 市を占領してアラビアの商業路を抑え、東方ではアルメニア Armenia・アッシリア Assyria・メソポタミア Mesopotamia を属州とし、その国境をテイグリス河 Tigris まで押し広め、ロ-マ帝国最大の版図を実現した。先帝の寡婦・孤児の援助を継続し、公的な教育施設を設け、軍道・運河・橋梁・港湾・駅逓などの施設の建設を推し進め、優れた行政手腕で商業・交通の発展を図った。美麗な廻廊を巡らすトラヤヌスのフオルムは 皇帝の造営したものの中で最も美しいもので、 1823 年に始めて発掘され、 1925 年以来発掘が続けられている。

(本文訳注 039) マルクス・アウレリウス帝 Marcus Aurelius Antoninus
A D 121 - 180 年。ロ-マ皇帝で、在位 A D 161 - 180 年。五賢帝の一人で、古い庶民の家系に属す。138 年にルキウス・ウエルス Lucius Aurelius Verus と共に アントニヌス・ピウス帝 Titus Aurelius Antoninus Pius の養子となり、即位後元老院の承認を得て ウエルスを僚帝とし、アウグストス(正帝)の称号を受けた。ゲルマン族やパルチア Parthia 人の侵入を防ぎ、良く国内を治めた。自らは平和を願いながらも、162 - 165 年のメソポタミア Mesopotamia のパルチア人、177 - 180 年のボヘミア Bohemia との戦い、オ-ストリアのマルコマンニ族 Marcomanni などと絶え間なく戦争に従事した。ストア派の哲学者として知られ、倫理的厳格性を身に着け、教養、学問への愛好とロ-マ的純朴性とを結合した。著書には<自省録>がある。

(本文訳注 040) 大プリニ- Pliny the elder
23 ? - 79 年。Gaius Plinius Secundus。ロ-マの将軍、官吏で博識家である。コモ Como に生まれ、ネロ帝時代に文筆生活に入り、ウエスパシアヌス帝 Vespasianus と親交を結び、ガリア Galia、アフリカ等の属州統治者となり、ミセヌム Misenum の艦隊司令官にもなった。提督として 79 年ウエスウイウス噴火の調査に赴いて 窒息死した。軍事・歴史・修辞学・自然学に関する諸著作の内、現存する<自然誌> 37 巻は 自然のみならず 世界・神々・人間の成立・薬学・地質・地理・芸術等に関する一種の百科全書をなし、古代末期より近世初期にかけて 自然研究の手引書であった。

(本文訳注 041) リュシッポス Lysippus
B.C.4 世紀後半のギリシャの彫刻家である。古典期最後の大家で、アレキサンダ-大王の宮廷作家として活躍した。シキュオン Sicyon に生まれ、その伝統を継いでブロンズ彫刻に長じ、多作で有名である。作品は ギリシャ本土からイタリ-に及び、神々・英雄・肖像・動物・小品から巨像を含む。優美、軽快なクラシカル期後期の理想となった 八頭身の比例を創始し、円熟した技巧と感覚的な表現とで ヘレニズム美術の先駆者とされる。代表作<アポクシュオメノス Apocsyomenos>(摸刻がヴァテイカン美術館にある)は、B.C.4 世紀の理想を表わしていて、長身で 頭髪は精密、多感な表情と軽快敏感な肉体を示している。ギリシャ彫刻史上初めて肖像を作って 写実主義への道を開き、ヘレニズム美術への橋渡しを果たした。

(本文訳注 042) オリムピア-ド Olympiad
4 年を一区切りとした 古代ギリシャのオリムピック歴である。オリムピアのゼウス神の祭典の時に、4 年毎にオリムピック競技が行われ、その第一回は B.C. 766 年に開かれたと言われる。この年を初めとして 第何回オリムピックの第何年目として<オリムピア-ド>という紀年法が、B.C.3 世紀頃からギリシャで用いられた。しかし 日常生活で用いられることはなかった。

(本文訳注 043) クラシシズム Classicism
B.C.450 年頃から B.C. 320 年頃までのクラシカル期に ギリシャで発達した絵画・彫刻などの形式の特徴について言い、端正な形式美を重視して調和・均斉・明晰な表現を追及したものであった。<崇高な様式>と呼ばれる B.C. 5 世紀後半の盛期クラシカル期には パルテノン神殿などの壮麗な建物が完成し、フイデイアス、ミュロン、ポリュクリトスら巨匠が彫刻で活躍し、B.C.5 世紀末のペロポネソス戦争、4 世紀の絶え間のないポリス polis 間の対立、抗争を通じて、人々の感情思想はより現実的・人間的となって、宗教的関心も次第に弱まって行った。この傾向を反映して<優美な様式>と呼ばれる B.C. 4 世紀の後期クラシカル期の彫刻家プラクシテレス、スコパス、リュシッポスは、優雅で人間的情感に溢れる彫像を作った。

(本文訳注 044) デモステネス Demosthenes
B.C.384 - 322 年。アテネの政治家で、職業的法廷弁論代弁者となった。反マケドニア運動の闘士で B.C.351 年にマケドニアのフイリッポス二世に対する攻撃演説で アテネの危機を説いて頭角を表わす。B.C.340 - 338 年にはアテネを主導し 宿敵テ-ベと同盟して、フイリッポス二世と決戦したが敗北し、アレキサンダ-大王の死後も 反マケドニア運動を行ったが失敗した。B.C.322 年の敗戦で アテネはマケドニアに降伏し、死刑を宣告された彼は 追手を逃れて自ら服毒自殺した。その間<和平論><フイリッポス論><栄冠論>など作品が多く、愛国者として後代に影響した。

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