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○ 日本たばこ産業- J T(旧日本専売公社)が 葉たばこの安定購買を目的として新しく事務所を設立し、初代の所長としてギリシャ(当時は王国)の首都アテネに赴任したのは 1965 年(昭和 40 年) 4 月のことでした。アテネに当時在住していた日本人の数は 赤ん坊まで入れても 100 人以下で、皆様夫々にお忙しく仕事をされており、事務所の設営から 自宅の確保、始めての海外生活を送る家族が毎日の生活をするリズムを作ること(娘たちのアメリカン・スク-ルへの入学依頼が大変厄介で 手間取りました)など、すべて自分自身で始めなければなりませんでした。異国の風俗習慣の相違に基づくカルチュア・ショックなどによる苦心談、失敗談(今となれば笑い話)など数え上げれば 山程ありますが、それを此処で御紹介するのが目的ではありませんので、全部省略します。一方ではこれと併行して 仕事の方もシ-ズン入りしています。毎年の所要量買い付けの他、安定購買のため買付け方法も根本的に改めたいということでしたが、何分今まで殆んど調査らしい調査もしていなかった上に、この国には正確な統計数字なども殆んど無くて、これ又結構大変なことでした。赴任後最初の 2 年間はそんなことで 本当にあっと言う間に過ぎ去ってしまったような感じがします。

○ アテネのアクロポリスの丘を始めとして ギリシャは何と言っても 西欧文明 と言うより世界の文明の淵源の地であり、メッカです。所長の他には技術系の荒川君のみ(2 年目から益山君が補充されて技術系 2 名)という小世帯とは言え、J T の事務所があるともなれば 訪欧の途次に立ち寄られる来客の数も次第に増えて来ました。所が忙しくて余り暇がなかったのに加えて、当時は日本で刊行されていたギリシャの観光案内などは殆んど見当たらなかったこと(近年では書店に行けば世界中の観光案内書が所狭しと並んでいますが)もあって、遺跡や観光地にお客をご案内はしますが、昔学校で習った西洋史を思い起こしながら 全くあやふやな通り一遍のご説明でお茶を濁すといった状況でした。ガイド・ブックを始め色々な美術解説書をアテネの書店で買い求め、辞書を片手に要点を pick up してやっと幾らかまともなご案内が出来るようになりましたが、その時には 3 年の駐在期間は既に満了していました。

○ <病膏肓(こうこう)に入る>ような形で、当時買い揃えた何冊かの本を 帰国後も開いては眺め、何時の日か若し暇が出来るようなら翻訳して、多くの方々に素晴らしいこの古代ギリシャ文化にもっと親しんでいただけると良いのにと願いながらも、暇を作り出すのが余り上手ではないサラリ-マンのこと故、殆んど手付かずのままで 25 年が経過してしまいました。不幸にして病を得て 経営の第一線からリタイヤし、療養に専念することとなって、長年心の中で暖め続けて来た虫がやっと活気を取り戻し始めました。まさに好機到来の思いでした。慣れぬ手つきでワ-プロを不器用に扱いながら 幾つかの訳文が出来上がり始めました。文章も何度も推敲して 訳文調にならないよう改めました(未だ十分とは思えませんが)。一番大へんだったのは 神話や史実などに出て来る人名、地名などに訳注を付ける作業でした。近くにある図書館に足繁く通って、出来るだけ調べましたが、どうしても判らないものも幾つか残りました。

○ 早いか遅いかの違いこそあれ、人間は誰しも一度は必ず死ぬものです。まして学徒出陣の中国大陸では やっと 20 才になった許りで 死んで当然というケ-スを偶然にもうまくくぐり抜けて 生命を失わずに済んだという経験が幾つもあって、復員後の人生は昔のキャラメルのグリコに付いていた<おまけ>のようなものだとかねがね思っていただけに、残された余生の期間がそれ程多くないことを医者から告知されても、受けたダメイジは 思いがけず小さくて済みました。悔いは全くないのかと問われれば、必ずしもそんなことはありません。やはり口惜しい。健康で周囲に何の迷惑も掛けず 無事生きられるのであれば、もう少し長生きして孫たちの成人式や結婚式も見、出来ればもう一度阪神タイガ-スの優勝が見られるようなら こんな嬉しいことはありません。だが病に蝕ばまれてもだえ苦しみ、家族を始め周囲の方々に多大の負担を掛けてまで生き残りたいとは更々思いません。満 69 才という年齢が早過ぎる死であったのか、それとも十分満足できる期間であったのかは、客観的な基準がないので何とも言えませんが、主観的には思い残すことが少ない(無いことはないとしても)まずまずの年齢であったと言えましよう。せめて後 5 年生き延びることが出来ればというのは 贅沢な未練というものなのでしよう。

○ 恩人、友人、知己などが亡くなられると 故人との長年のご厚誼を謝礼し ご冥福をお祈りして香典を差し上げる。暫くすると殆んどきまって香典返しが送られて来て、押し入れのタオル・ケットとシ-ツの山が又高くなる。それはそれで又しきたりの一つとして止むを得ないものではあるとしても、自分自身の時には何とかならぬものかなという気持ちが前々からありました。頂戴した香典の一部は 癌研究などの施設団体に寄付する。タオル・ケットに代えて私の労作を印刷させていただいて、これをお送りするのはどうかなと思っています。小冊子だから余り邪魔にもならず 本棚の片隅だけで済みます。興味を持って読んでいただける方も多いかも知れません。ギリシャの歴史や文化 特に彫刻作品に魅き付けられ 小冊子を片手にしてギリシャを訪れ、永井という男がどうしてこうした石の作品に興味を持ったのかなどと思い出していただける方が出れば、こんなに嬉しいことはありません。

○ アクロポリスの丘は アテネの市街地の略々中央 やや西寄りにあります。エジプトは別としても、他の殆んどの人類が 未だ線刻の幼稚な文化の段階に止まっていた  2500 年近くも以前の年代に、精緻に計算された設計に基づく大神殿をこの丘の上に造営し、クラシラル期の完成された美の極地とも言える多くの彫刻品を作って奉献したギリシャ人の 卓越した叡智と天賦の才能とには 唯々驚愕する許りです。

○ 西側にあるジグザグ道を昇ってアクロポリスの丘に近付きますと そこにはプロピュライアの壮大な入口門があります。この入口門は西側正面から見ればドリア式の構築物ですが、地形と構造とに合わせて 東側にイオニア式の円柱を巧みに配したユニ-クな構成となっています。その南側のピュルゴスの高台の上には 小さいながらも端正なイオニア式のアテ-ナ・ニケ女神の神殿が立っています。入口門を通り抜けて丘の上に到りますと、目の前にあの重厚なパルテノン神殿が聳え立っています。破風彫刻とフリ-ズの浮き彫りとは 今ではその大部分が大英博物館に展示され、エルギン・マ-ブルズの名で その美しい出来栄えが多くの人々に賞賛されていますが、その神殿の本体の方も ドリア式の剛直な構造の中にイオニア風のフリ-ズ彫刻を巧妙に取り入れていますし、円柱に見られる中膨らみ(エンタシス)が 法隆寺の建築にも影響を与えたものであることは、ご存知の通りです。パルテノン神殿の北側にはエレクテウム神殿があります。台地の大きい段差とうまく調和を取って造営されたユニ-クな構造を具えた複合神殿で、特に南面ポ-チに 6 体の女人像柱を配した着想の目新しさが斬新です。パルテノン神殿の均斉の採れた美しさだけであれば、絵葉書や写真を見ても十分に感じ取ることが出来ますが、神殿の構造物全体から受ける 圧倒されるようなボリュ-ム感というものは 矢張り自分自身が実際にパルテノン神殿の前に立って見上げるのでなければ 実感として受け留めることは出来ないことだと思います。

○ 美術館には 同じアテネの国立美術館に次いで数多くのギリシャの彫刻品が展示されています。第 1- 2 室には パルテノン神殿以前にアクロポリスの丘の上にあった 幾つもの神殿の破風の浮き彫りなどが展示され、中でも第 2 室の<青髯の男>と呼ばれる破風彫刻の 無邪気な三人の人物の顔が印象的です。第 4 室には 有名な<ア-ケイック・スマイル>の少女像が数体展示され、少女の顔に見られる微笑をたたえた表情と 衣服の襞の美しい彫刻とが、特に眼を惹きます。第 5 室では アテ-ナ女神の古い神殿の破風を飾ったと見られる アテ-ナ女神の巨大な像が展示され、第 6 室には <クリテイオス・ボ-イ像>とか<瞑想に耽るアテ-ナ女神の浮き彫り>とかの 所謂シビア・スタイル期の 厳しく雄勁な彫り込みのタッチが見受けられています。更に第 8 室では ロンドンに持ち去られずに残った パルテノン神殿のフリ-ズの完熟した浮き彫りの厚板とか、アテ-ナ・ニケ神殿の胸壁の浮き彫りの厚板 特に<サンダルを脱ぐニケ女神の浮き彫り>に是非ご注目下さい。

○ アテネもご多分に洩れず車の排気ガスによる公害に悩まされ 大理石の腐蝕の進行が著しいため、パルテノン神殿の大修理が施され 神殿内への立ち入りが禁止されると共に、西面フリ-ズやメト-ペの浮き彫りが神殿から取り外され 同じように取り外されたエレクテウム神殿の女人像柱と共に美術館の中に展示されているそうです。私が最後にアクロポリスを訪問したのは 1977 年ですから それから既に 20 年近く経っています。この冊子の中での説明は更にそれより 10 年前の 1965- 67 年当時のものですから、現在の状況とは異なっている点も数多くあることと思いますが、ご勘弁をいただきたいと思います。

○ お仕事とか観光とかで折角ヨ-ロッパまで出掛けていながら アテネに立ち寄らないで帰るという手はありません。どうぞ是非アクロポリスの丘に昇り パルテノン神殿の周りにゴロゴロ転がっている大理石塊に腰を下ろして、古代に毎年行われていたパンアテナエア祭の厳粛な行進の風景とか、ペルシャ戦争の最中にアテネに居残った一部の市民がこの丘に立て籠もり 圧倒的に優勢なペルシャ軍と戦って全員玉砕した 凄惨で壮烈な戦闘のことなどを思い浮かべて見て下さい。そして何よりも B.C. 5 世紀に ペルクレスとフイデイアスとが中心となってこの丘の上に造営した 雄大で精緻なこのパルテノン神殿に魂を奪われて、時の経つのを忘れて 何時までも座って眺め続けて下さい。

○ 現在この小冊子を手にして この文章を読んでいただいているのは、長年に亘ってご厚誼をいただいて来た 私にとって大切な方々ばかりです。私が今日まで このように充実した人生を送ることが出来ましたのは 皆様方の恒わらぬご厚情、ご鞭撻と手厚いご指導、ご援助の賜であったと 心から感謝しています。特に若年の頃には 遠慮することを余り知らなかったために、ご無礼も数多くあったことでしようし、相手の方の心を傷付けるような発言も 幾つかあったに相違ないことと思います。最後には満足に喋舌ることさえかなわなくなったのは きっとその報いに違いないと深く反省しています。どうかお許し下さい。

○ 私の葬儀に当たっては お忙しい中を態々ご会葬いただいて有難うございました。生前に自分の意思で はっきり謝礼を申し述べることが出来るのは、こうして余命についての告知を受けたことによるもので 有難いことです。突然の発病で あっと言う間に亡くなってしまわれた方々や、死を語ることを避けて 気にかかることを多く残したまま 家族にすら何一つ伝えることもなく亡くなられた方々を 数多く見送りましたが、さぞかしご無念なことであったと思います。本当に色々有難うございました。若し厚かましく 更に何かお願いすることが許されるのであるとすれば、急に交流が途切れると 残された妻の艶子がさみしくなることでしようから 時々声を掛けて 麻雀やお喋舌りに誘い出していただけると 本当に有り難いことだと思います。

○ 最後になりましたが、皆様方がご家族の方々ともども 健康には十分ご留意されて、一日でも長くお幸わせに 睦まじくお暮らし下さいますよう 心からお祈り申し上げます。 さようなら。




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