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 B.C.4 世紀の間中を通して 浮き彫りのスタイルの中にも亦 幾つかの形の変化が起こっていて、その変化の跡を辿って見ることも 一方では又有益なことである。同じような場面を描いた アッテイカ地方の墓碑の浮き彫りが 2 つあり、相互に比較して解明することが出来るのであるが、その一方は 5 世紀の末期に作られたイゲソ Hegeso の墓石碑(図版 187)であり、もう一方は 婦人とその女召使の像を描いたもので 年代にして 30 年か 40 年許り後に作られた墓石碑(図版 202 と 203)であって、今はそのどちらも アテネの国立美術館に収蔵されている。イゲソの墓石碑の中では、2 人の人物の頭がどちらも 僅かに傾いており、女召使が保持して 腰掛けている婦人に向かって差し出している函が利用されていて、その函の中から婦人が宝石を取り出している。両手とも 両腕とぴったり接触したポジションを採っており、椅子が描いている曲線と 女召使の背中の所で垂れ下がっている 長い外衣の線とが、浮き彫りの輪郭の枠組みを作り出していて、そうした様々な表現を通じて 2 人の人物像の間に内的な繋がりのあることが示されている。うわべを見れば同じように見える 4 世紀の浮き彫りの方では、少女の召使はその手に函を持って 独立して自前で立っているのであって、函を自分の身体にくっ付けて保持し 蓋を持ち上げてそれを見下ろしている。腰掛けて 頭を下げている婦人も、両脚を拡げて立っている女の召使も、どちらも非常にしっかりと自分の着物にくるまっているので、手足の動きとか 身体の曲線とかが どれもこれもすべて、布地の抵抗に逆(さか)らって浮かび出ている。真っ直ぐになった座席の直線の周りには 接続しているものは最早 何一つとして存在してはいない。人物像はより独立したものとなり、分量としても より深い空間を持ち、輪郭もはっきり付いていて 背景面からは目立っており、更には その背景面そのものも、人物像との関連では その獲ち得た堅固さと自律とが 一段と大きいものになっているのである。

 イリッサス川から出土した墓碑像(図版 226)であるとか、ラムヌス Rhamnus(訳注 154)で出土した墓石(図版 227)であるとか、外套にくるまった有髯の男性が彫られている断片で もう少し後年の作(図版 240 と 241)とかいったものに見受けることが出来る通り、B.C.4 世紀がだんだんと進んで行くのにつれて 人物像の彫刻は他と接触を持たないという方向に向かって 次第に一段と近付いて行っている。背景面との間にあった関連がだんだんと失われ、人物像が背景面から隔離されるという形になっており、一方背景面の方では、自らの独立性をだんだんと主張していて、最後には 人物像に対して際立った対照を示して 突っ立っている壁面といった性格を帯びるに到っている。この 2 つの構成分子が互いに生気ある相互関係を持っていて、これが B.C. 5 世紀と 4 世紀においては ギリシャの浮き彫りを活気付けていたのであったが、お互いの間の繋がりは最後にはとうとう 殆ど失われてしまっている。このようにして フアレロン Phaleron(訳注 155)のデメトリウス Demetrius(訳注 156)が奢侈禁止を布告し アッテイカ地方の墓碑浮き彫りの彫刻を この 4 世紀の最後の段階で終わらせることとした時点では、彫刻のこの形態の芸術的な発展は こうして終熄するということが、すでに予示されていたと言えるのかも知れない。

 たった今引き合いに出した許りの 外套にくるまった有髯の男性が示されている アッテイカ地方の後期の墓碑浮き彫りの断片(図版 240 と 241)から見れば、このイゲソの墓石(図版 187)の作られた時期との間には 凡そ 100 年間許りの隔たりがある。この 100 年間と言えば それは又革命的な大変動のあった時期でもあった。その初期にあっては、閉鎖された政治的構成単位としてのギリシャの中でペロポネソス戦争の間を通して ギリシャの諸都市国家がその覇権を求めてずっと戦い続けていたし、その終期においては、マケドニア地方 Macedonia(訳注 157)のフイリッポス二世 PhilipposⅡ(訳注 158)及びアレキサンダ-大王と争って戦っている内に 一つ一つのコミュニテイのどれもこれもが 自らの独立と自由とを喪失していったのであった。アレキサンダ-大王は ギリシャの文化を遠く印度まで運んでいった。大王が B.C. 323 年に若死した後は、大王の作った帝国は 彼の後継者たちの手に陥ちた。それから後になるとギリシャ本土は、政治的領域と芸術的領域とで保持していた その卓越した役割りを放棄して、デイアドコイたちの大邸宅に譲り渡すの余儀なきに到ったのである。その中で特に アレクサンドリア Alexandria(訳注 159)とか シリア Syria(訳注 160)とか ペルガモンとか ビテユニア Bithynia(訳注 161)とかの王たちは、B.C.3 世紀と 2 世紀の間を通してずっと自分たちの周りに 詩人や学者や絵師や 更には彫刻家を寄せ集めて、自分たちのために仕事をするよう依頼したのであった。

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