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アクロポリスの丘の周辺
 
 
 
 

○ ネロ帝の治世期になると、この劇場はこの皇帝に献上され、スケ−ネがその時に修理されて 二階建ての建物となり、オ−ケストラの方は大理石で舗装された。

○ 後年のロ−マ皇帝時代には、このオ−ケストラは グラデイアトル gradiator(訳注 505)用のアレ−ナ arena(訳注 506)に改造された。

○ その 3 年後の A D 270 年には、ヘルリアンの人々がアテネの記念建築物を破壊したが、その時アテネのアルコンであったフエドロス Phaedros が劇場を改修し、スケ−ネを補修した。初期キリスト教時代になると デイオニソス神の劇場のこの区画には、アイル(側廊)が 3 つ付いたバシリカが建てられた。

○ 今日現存して見られているものは、半円形をしていて 後年になって舗装されたオ−ケストラと 彫刻の装飾が付いているプロスケニオンの一部、土台石、石造のスケ−ネ構造物の 幾つかの部分である。大理石の王座のカヴェア(観客席)の下の部分と 前列に 3 つあって 名誉を表章する彫り込みが付いており 神官、アルコン、デモス demos(訳注 507)の恩人たち用に用意された座席も亦見ることが出来る。

○ 着想とか 形態とか 建築学の解明として見れば、デイオニソス神のこの劇場は 原型となるものであり、同時に太古から今日へと展開して来ているそのような劇場の魂の先触れとなるものでもある。

◎ ペルクレスのオデウム (奏楽堂)

○ ペルクレスのオデウムは、62.40 x 68.60 m.の大きさの面積を持った 4 面の広大な多柱式建造物のヒュポステユロン hypostylon(訳注 508)のホ−ルであって、デイオニソス神の劇場の 東端に隣接した位置にある。風変わりな地形上の関連から オデウムが劇場の中に突っ込むという形で この両者は直接に繋がっており、そこでは さながらオデウムの北西の隅が 劇場の中に突っ込み、 カヴェア(観客席)の二番目のデイアゾマ(上の列)の一部と 取って替わっているかの如くである。併し実際には その逆の方が真実であって、B.C.5 世紀以降 オデウムが既にそこにあったことの故に、B.C.4 世紀に行われた 劇場のカヴェアの拡張工事が止められて、カヴェアの方が、構造的に調和を図るよう 余儀なくされているのである。

○ オデウムの発掘作業は、その土台石の部分の出土だけに限定して行われた。このオデウムには北側の入口以外にも きっと残る三面すべてに入口があったに違いない。内部では円柱が 3 列に並んで このホ−ルの 4 面のすべてを支え、中央には開けた空間が出来ていて 音楽家が使用することになっていた。全部で 72 本あった円柱には ア−キトレイブ(軒縁)が付いており、その上に更に列になった円柱が立って 非常に丈高のピラミッドのような方形屋根を支えていて、この屋根の形は <クセルクセス王のテントを摸倣した>創作品であると パウサニアスが大声で叫んだものであった。

○ 神の霊感であったこのオデウムは、ペルクレスの監督の下に 建てられたものであって、観客の座席用の木製のスタンドが取り付けられ、パンアテナイア祭で行われるものを含めて 音楽の番組やコンテストのすべてが演奏されるのに 使用されることになっていたものである。

○ このオデウムは B.C.445 年に建造されたものであり、スラ Sulla(訳注 509)がB.C. 86 年になって この町に侵入して来る直前に、アテネの人々自身の手によって灰燼に帰した。B.C. 61 年には カッパドキア Cappadocia(訳注 510)王のアリオバルザネス二世 AriobarzanesUの手で 再建された。

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