(訳注 382) クノソス Cnossos  
      
      クレタ文明最大の中心地で クレタ島北岸中部のヘラクリオン  Heraclion から 約 6 km.内の地の小丘である。初期青銅期時代末期に隆盛となり、最盛期の B.C. 1600 - 1500 年には ミノス王の海上王国の首都で、東部地中海の交易権を独占し、広大な王宮を建築して 殷盛を極めた。B.C. 1400 年 再度のギリシャ人の侵入で壊滅した。 
      (訳注 383) ケラ cella  
        
        ラテン語で<小室>の意で、ギリシャ語ではナオス  naos(訳注  205 参照)と言う。ギリシャ・ロ−マの神殿で 周囲の柱列廊部分から壁で区画されている神殿の本体を指す用語で、屡々内陣 即ち神像を安置する神殿の主室を指し、大規模の場合には内部に列柱が立てられる。ケラを囲う壁には窓はなく、光は出入り口からのみ採られる。厳密にはナオスの他 プロナオス(前房)とオピストドモス(後房)をも含む。 
      (訳注 384) ペロポネソス戦争 the  Peloponnesian  War  
        
        アテネとスパルタとがギリシャ世界の覇権を争った戦争(B.C.431 - 404 年)で 疫病によるペルクレスの死亡の後 アテネが敗れ、一旦 B.C. 421 年に ニキアスの和約が成立したが、再び戦闘が続き、B.C.405 年アイゴスポタモイ Aigospotamoi 海戦で最終的にアテネが敗れて デロス同盟が解体した。 
      (訳注 385) ペリステユレ peristyle (列柱廊) 
        
        <繞柱式列柱廊>を言う。古代ギリシャ・ロ−マで 中庭の周囲全体に 列柱で屋根を差しかけた中庭型住居を ペリステユロス peristylos と呼び、ロ−マ住居の一戸建て邸宅ドムス  domus で アトリウム Atrium と呼ばれる 第一の中庭の奥に作られ、A D 2 世紀以後 この一画がアトリウムに代わって 居住の中心になった列柱中庭をペリステユラム peristylum と呼ぶ。ペリスタシス peristasis と同義である。 
      (訳注 386) アムピプロステユレ amphiprostyle ( page  43 図 06 D 参照) 
        
        <前後柱廊式><両向拝式>の意。古代神殿建築で 前後両正面が柱廊式となっているものを言う。ギリシャ語の  amphiprostylus(訳注 233)と同義。 
      (訳注 387) テトラスタイル tetrastyle  
        
        <四柱式>の意。ギリシャ・ロ−マの古代の神殿又は神殿風の建物の一形式で、前後面の一方又は両方に  4 本の円柱の立っている様式を言う。ギリシャ語はテトラステユロス tetrastylos である。 
      (訳注 388) ゾフオロス zophoros 
        
        人間や動物の彫像の付いたフリ−ズを言う。ギリシャ語のゾイフオロス  zoiphoros がその語源である。ゾアフオラス  zoophorus とも言う。 
      (訳注 389) エルギン卿 Lord  Ergin  
        
        エルギン伯爵。 19 世紀初め アクロポリスの大理石彫刻物を旧トルコ政府から買い取って英国に運んだ。<エルギン・マ−ブルズ>の名で 大英博物館に展示されている。 
         
        (訳注 390) コルニス cornice  
        
        <軒蛇腹>。古典建築では エンタブレイチュア(長押)の最上部の 突き出した水平帯。傾斜したレ−キング・コルニス raking cornice と共に 三角形の破風を形作る。一般には 各層を区切る部分に付けられる 装飾的水平帯をすべて<蛇腹>と呼び、その位置によって<軒蛇腹> <胴蛇腹> <天井蛇腹>とも言う。 
      (訳注 391) カリマコス Callimachus  
        
        ギリシャの陸軍指揮官で、B.C.490 年のマラトン Marathon の戦闘で約  1 万の重装兵を率いてペルシャ軍と戦い これを破ったが、この戦闘で戦死した。 
      ( 119 )  |